2007年11月10日
監督のこと
2年生から野球をはじめて4年生のときその監督が野球部にきた。友人いわく「黒くて変な人」と文集に残していたことを思い出す。
4年生でスクイズ専門で試合に出してもらえるようになり、チームは地区予選を勝ち抜けるくらいになった。
5年生でレギュラーになって練習はことさら厳しくなり、朝は6時から練習して朝飯を食って小学校へ。夕方は4時頃から8時頃まで練習した。夜は3つだけバックネットにつけてもらったライトで逆光となるため、ノックをしてもボールが見えない。ゆえにボールにラインを引く白いやつを塗って煙を噴くボールを追いかけた。
体罰は朝飯前。ビンタはもちろん、脚にバットをはさんで正座、バケツに水を張って顔を突っ込まれる、バッドのグリップでごつり。「後ろに回れ、正座!」といわれて屁をこかれるのも普通だった。練習試合で負けるとすぐ殴られた。
練習がたるんでいると監督は釣りとかに行ってしまう。レギュラー全員で謝りにいってなんとか練習に呼んでくるという気難しさも持ち合わせていた。
冬でも学校の警告を無視して体育館でボールを思いっきりつかってスクイズの練習をした。スクイズに失敗すると「くいっ」と手を動かす。失敗した私はスゴスゴと夜のグランドに出て行く。もう雪の上をはだしで3周とか今考えると虐待のレベルではなかった。足が冷たすぎて、ひざで歩いた覚えがある。冬は雪が固まる。ザクッと砕きながら進む感じ。
監督は私生活でもおかまいなかった。ドロドロの子供たちを家に招き飯を食わせた。野球部は練習で学力に問題が・・・といわれれば勉強もさせたし、本読み確認で親に印鑑を押させていた。
小学生で変化球禁止なのにカーブを教えたり、隠し球を練習したり、ディレードスチールとかもう小学生の域を超えた練習をしていた。朝のオーラスは素振り500回。
体罰が高じて私は「鼻血の○○」という異名までいただいた。ビンタで鼻血を出したのは10回くらいではない。
エラーをすると「ミットいらんだろう」とファーストである私はミットを取り上げられた。軟式とは言え、サード・ショートあたりからの送球は痛い。さらに遠慮して投げようものならとばっちりである。だから全力で投球だ。
バッグネットのノックは恐怖だった。プロテクターと面をかぶって10〜15メートルという至近距離。キャプテンの谷口くん的リアル。
春の地区予選をなんとか優勝し、県大会でベスト4にすすんだ。当時小学生のスター軍団みたいなチームとの対戦のときは「やるだけやろう」的気持ちでのぞんだ。結果・・・4-2で勝ってしまった。ちょうどスラムダンクで湘北が山王に勝つ感じだ。
そのあと決勝戦ではコールドで負けた。準決勝のチームより小ぶりだっただろうか・・・チームの質も似ていたが。
夏のリーグ戦では地区予選で2勝1敗で並んだ。得失点差では負けていたように思うが・・・監督がゴネにごねて予選を通過することになった。どうゴネたかはわからない。しかし直情型だったので、きっと恐れたのだと思う。
練習はさらに厳しくなり、ファーストの私とキャッチャーの友人はことさら殴られた。エースは才能があったが後は小ぶりである。たいしたメンバーではなかった。
エースの鼓膜が破れたときはさすがに親も抗議したようだ。しかし勝ち進んで全国大会に出場できることとなった。監督は高血圧で優勝したとき卒倒した。レギュラーのほとんどが泣いた。本当のうれし泣き。
今考えると異常な努力である。しかし小学生にはそれが努力かどうかなんてわからない。ただこの人の言うとおりにすれば勝てるような気がした。実際監督就任2年目ではその通りになったのだし。
監督はサラリーマンだったのに、平日でもお構いなく休みをとっていた。フツーはムリである。仕事を犠牲にしていたとかではなく、まわりに有無を言わせなかった。そして全国大会でベスト8まで進んだ。
最近では根性ではだけでは的な風潮がある。しかし、小学生のときに努力と根性でなんとかなった。努力と根性の概念もなかったけれど。もっとも本当にキレていたし、愛のムチではなかった。小学生に容赦なく本気だった。監督はメチャクチャだったし、教わったわけではないが、そう思った。「なんとかなるものだ」
監督にカブトムシを取りに連れて行ってもらったときは友人がハチにさされ、友人の小便をかけた。
つりにつれていってもらう前に私の薬指に釣り針がささり、監督に引っ張ってもらって肉がそげた。
そんなことが思い出される。監督は永遠に私にとって監督である。尊敬とかそういうのではない。ただ、ただ、監督だ。一緒に泣いて一緒に喜んだ監督だ。変わった人だった。少なくてもレギュラー9人は監督をいつまでも監督と呼び続ける。
ぼろいディーゼル車で川沿いを監督がくるとき、私たちは気合を入れた。その汚い車に押し込まれて遊びにいき、試合に勝った負けたが小学生の記憶の大半である。熱狂して応援する親とともに。
今でも努力すれば「なんとかなる」と思っている。少々ずるくてもいい・・・努力を惜しまなければ。
小学生のときに監督に会わなかったら私はどうだったろうか?努力の果てを信じることができたろうか?
監督が亡くなってからもう何年もたつ。ブログを書きながら初めて感情がこみ上げる。
監督が今でもいらっしゃったら何を話すだろうか?
本当にいい人だった・・・とかそういう話ではない。人間としてはもしかしたら問題があったかも知れない。しかし、もっとも影響を受けた他人である。多くのメダルが実家に眠っている。そんな記憶と一緒に。
優勝したときのパネル写真を見るとき、みんななんと誇らしい顔をしているのだろうと思う。
小学生にはすべからくそんな表情ができる瞬間があればいいと思う。![]()
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この記事へのコメント
私にはそんな「監督」はいなかったけど・・





