2007年11月20日
人が人を選ぶということにおいて主観からは絶対逃れられない(人事管理)
試験というのはその結果が公平である。ただし、数学とか、国語とか・・・指標化できているもののみである。
管理職を選ぶ場合、ペーパーでマネジメント能力なりを測るのはそもそも難しい。その企業で好ましいと思っている人間とペーパーの成績が比例するように作るのは至難の・・・いやムリだ。
もっとも優秀な人間はペーパーなどやすやすとクリアしてしまう(ここで言う優秀はマネジメント能力とは別)。やらなくても成績はそれまで(各種)試験とかを行っていれば、やる前からわかる。
まあ昇進・昇格試験となればみんなそれなりの努力をするだろうから結局自力の差しかつかない。
もっともペーパーが得意な人間を選ぶなら別。しかしそうではない。欲しいのはきちんとマネジメントできる人間。
しかし、そのペーパーの結果は公表されることは少ない。公表できないような試験ならば本来やる必要がない。単純に選ぶことについての客観性を担保するためだけに行われる。
つまり、自分が選んだことについて客観性を持たせ、自分が選んだということの主観から逃れようとする一連の行為が適性検査であり、昇格試験である。
要はどうせ選ぶならばそこから逃げるなということ。もしやむなく選ぶとすれば選ぶなということ。
こういう無責任な企業(個人と言うか選ぶ人の)姿勢は企業の活性化を阻害するばかりか、結局年功序列を助長する。客観性をもっとも担保できるのは年齢(または勤続年数)であるからだ。
ただし、誰しもが経験年数=マネジメント能力ではないことはわかっている。わかっているのに、腐りかけの社員への起爆剤としてある種の麻薬のように昇進というカードをちらつかせる。
これは効用が極端に短い。何年来マネジメント能力のなかったものにマネジメント能力が身につくはずがない。
下はそのマネジメント能力のなさに嘆く。
というスパイラルに陥らないためにも、
人が人を選ぶということについて
主観からは絶対に逃れられないということを強く認識すべきだ。
選ぶということはそれなりの責任を負うということである。そうでなければ、選んではいけない。もし客観性を重視するならマークでもさせて、機械に選ばせればいいのだ。
→アルファブロガー・アワード2007においても機械的指標であるページランクとか推定UUでノミネートを行っているわけではない。すべて推薦 人 がついている。
(安易な推薦とか)そういうことを無責任に行うということはやはり仕事に対して無責任であろうと言わざる得ない。(試験とか適性とか)ブラックボックスを増やすことは責任を回避する姿勢を感じてしまう。何年も勤務する人間を見ていないのか?と疑いたくなる。
管理職程度は・・・歴代の部門長の話し合いで決めてもいいんじゃないか?とか私は考えている。
もっとも歴代の部門長に(ちゃんと)選ぶ力があるか・・・はそれまでの企業姿勢でもあるわけだが・・・。
昇進をカンフル剤として使う企業の末路は・・・「役が人を作る」とも言うが・・・役を作るのはあくまで人だと思う。
「ポンっ」





