2008年10月22日
のぼうの城(書評・感想)
当主の従兄弟にあたる成田長親は、城内はおろか領民にまで「(でく)のぼう様」と軽んじられている。
農業の手伝っては「(めちゃくちゃになるので)手伝わなくていい」と言われるほど不器用で無口でのんびりや。
しかし、人の器は判じがたい。
人の器はその人中ににはない。器はその人を取り囲む人の中に存在する。だから見えにくい。
圧倒的な勢力で秀吉側である石田光成に攻められたとき、たまたま城代をつとめる昼行灯以上に冴えない「のぼう様」は(裏では降伏するという密約は交わされていたにもかかわらず)安易に「戦うこと」を決意する。
成田家にとってはもちろんのこと、それにつらなるものにとっては「戦うこと」を選択する方が(滅亡する可能性を含め)不利である。
にもかかわらず、領民以下一族郎党はのぼう様の決定に従う。
普段軽んじている者に対しても「あいつのためならば」と動くことがある。面倒を見なければいけない人ほどかわいがられることがある。
でく(木偶)・・・役に立たない人のこと。
しかし、のぼう様は操り人形ではない。優れた智や勇はあるわけではない。人を惹きつけてやまないわけではない。
が、のぼう様を中心に一致結束を見る。リーダーシップにはほど遠い。各々が各々の考えで結束する。扇の要ってわけでもないが、そういうまとまりというのはある。
仕事ができない人。そのキャラだけでかわいがられる人。
その人単体では才能のない「でくのぼう」
組織の中で、怒られ役とか、バッファとか、悪く言うと捌け口とか。ある種の役割を担っている。組織で力を発揮する。負ではあるけれどもそういうのも組織に必要だったりする。
薄目でぼおっとその人のまわりを眺めると「器」を感じさせることがある。蓋が開かないまま終わったり、器自体を見紛えたり。
大器は晩成す。
晩成は「大器」であっても現代社会において許されない。
のぼう様も石田光成と合いまみえることがなければ、蓋の開かない「大器」のまま終わったかも知れない。
片鱗をうかがわせる。
「大器」はそれを取り囲む人々が決める。片鱗は見せようとして見せられるものではない。まわりがうかがうものだ。のぼう様には誰も声に出さないけれど、片鱗を感じていたに違いない。
もし、完膚なきまでに才能の無いものがいたらそのまわりを見回すといい。
なんであの人が出世したの?には大きすぎて見えない取り囲む器や、現代が求めるゴリゴリとは違うリーダーシップがあるのかもしれない。
「そういうリーダーシップもあっていいんじゃないか」うれしさを予感させる一冊だ。
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石田光成・・・×
石田三成・・・○