2008年11月13日
大久保コーチの手帳と人事考課
私は半端な巨人ファンで、シーズン終盤から日本シリーズにかけて久しぶりに野球中継を眺めては手を叩いたりしていた。
日本シリーズはやはり負けるべくして負けた感があった。それより大久保博元コーチはバッターが打席を終えるごとに手帳を出しては何かを書き込んでいるのが気になった。
単純に「内野ゴロ、ゲッツー」とかそういうのはスコアラーが記録し、データとして整理整頓してくれるだろうからその他のことを記録しているだろうなあと考えていた。
ここから想像。
西武ライオンズの選手は半端ないフルスイングをする。巨人では小笠原くらいの、西武はほとんど大振りといわれるスイング。
失敗への恐怖心を募らせたりすることのほうが僕は嫌なので、それはしてくれるな、というのも伝えます。
ビジネスの世界でも「思いっきり行け、失敗はOKだ」なんて言うけれども本当にけつの穴の大きな人は少なくって、減点主義が蔓延っている。だから、消極的とはまではいかないものの、本当に思いっきり仕事をする人は少ない。
だから大久保コーチの手帳にはこう書いてあるのではないかと思う。
「 三振 フルスイング ○ 」
打席にたったときに、結果よりもフルスイングしたかどうかを問うているように見えた。
コーチとして指導して、結果よりも「そういう行動をしているか」を重視しているかのようだった。
打率、ホームラン、出塁率、など打者の記録は数値化される。しかし、フルスイングしたか?思いっきりの積極的なバッティングだったか?はきちんと見ていないとわからない。
数値化されたものは誰でもわかる。数値が残っていればその数値が強いバイアスとなって評価に影響を与える。
人事考課の場合には、成績考課、能力考課、情意考課があって、成績考課は割と簡単だが、能力考課、情意考課は好き嫌いが反映されやすくなり、結果的に成績考課に引っ張られる。
指導者や管理職は9月末とか、3月末とかでもって、成績以外はここ数ヶ月の印象に過ぎない評価を一日もかけずにつける。
それは間違ったことではないけれど(最終的にそういう評価で落ち着くのだけれど)説得力は欠くし、指導者や管理職がどうのような指導をしたかは問われない。
大久保コーチはどの打席もきちんと観察しているのだと思う。現在の状況のみで判断することがないように毎日観察する。
「監視」と「観察」は漢字だけを見比べてみても、前者は威圧的、後者は見守る感じがする。まさに「観て察して」いたのではないか。
いいかげんな量子力学の知識によれば、「観測する」ことが対象や現象に影響を与えるという。
観測することが現象を変える--量子力学における「人間」の存在
評価は評価される者だけでなく、評価する者をも試す機会だ。ゆえに自分が観察してきた結果と実際の成果を見比べて身悶えするような作業である(はずだ)。
正しい評価は組織を活性化させる。何が正しくて何が正しくないかは結果や成果、そして評価される者のコンセンサスで決まる。
大久保コーチの指導法や評価は(結果的に)正しくって、ほとんど若手だけで構成されるチームの打撃に大きな影響を与えたと思う。
結果の責任はより大きな権限を持つものが問われる。渡辺監督から大久保コーチにその権限は委ねられ、さらにそれを選手が実践する。
結果日本シリーズを制したから言えることではあるけれども、それでも、フルスイングの三振は気持ちがいいし、ピッチャーから見たら脅威と勢いを感じさせる。
巨人のイ・スンヨプ選手なんかは対照的で、不調になればなるほど結果を求めて、慎重に、見送り三振が続いた。
数値化される結果について、プロと呼ばれる世界ではきちんと責任を取るけれども、サラリーマンはより大きな権限を持つものほど、数値化されたものすら責任を回避するシステムが出来上がっている。
定性的な人事考課は2次、3次考課者なんてのがいて、いったい誰がどう評価したかわかりにくい。責任回避システム。
もし、低い評価しかできなかったら自分の指導力が不足しているし、高い評価をしたにも関わらず結果が残せなければ指導方法が間違っている。
もし、評価内容を本人に明かすことができないとすれば、それは指導者や管理職の(評価自体の)自信のなさに起因する。どこをどうすればどのような評価がつくのか?明示しなければいけない。
「お前にはSをつけたよっ」なんて耳打ちをする管理職は最低である。むしろ、評価が低かった者ほど、面と向かって(それはしんどいことだけれど)評価内容、理由、次にどうすればどうなるかを説明しなければいけない。
書くのは簡単だけれども、実際行うのはたいへんなことだなと思う。落伍者覚悟の短期労働なら簡単なんだれども、長いスパンだと恨まれたくないし、自分の上に来るかも知れない。
だが、やはり部下にフルスイングしてもらうためにも我慢してでも けつの穴の大きさを見せなければいけない。「失敗の責任は私がとる。方法は指導どおりにして欲しい。異論については議論しよう」と。
「楽は下にあり」出世・昇進するほど、きちんとしんどい目に合う組織こそが、本当にいい組織なんだと思う。
あなたの部下は失敗を恐れ、萎縮していないかしら?あなたの上司はちゃんと自分の欠点を指摘してくれたかしら?評価の軸や方法を示してくたかしら。納得を得られないまでも説得をし、好き嫌いではなく、その行動を評価していきたい。数値化されない部分についていつも身悶えする思いである。
何年もたったときに、部下が(私の)動きを真似ているとき、(悪い方は)恥ずかしく、(いい方は)うれしく思う。それは心の中だけで留め置くのがいいと思う。私のせいではないかも知れないし。
ただ、これからの自戒を込めて。
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