2008年11月24日
最近の若者は過保護に育てられています
採用と育成の責任者が、挨拶で開口一番「最近の若者は過保護に育てられています(怒)、生まれたときからエアコンも冷蔵庫もあって、社会人になってハナから自動車まで与えられています。だから貪欲さが足りない」とのたまった。
営業の一線に出る前の若者たちの後ろで、研修するために控えていた私にはちょっとわかないことがあった。
責任者の怒りはごもっとも。社会人1年生で研修に遅刻するのは何事だ!とまあそれはいい。
ただ、「遅刻=過保護」ってのは違和感があった。彼らが過保護に育てられたわがままいっぱいの者ばかりなら「なぜあなたは採用した?」と聞きたくなる。
「部署から出るのが遅れました」と言っていたので、もちろん遅刻が許されるのではないが、問題は管理職の管理。
偉い方は天にたびたび唾する。
「私の時代は欲しいものがたくさんあって〜中略〜今の若者は貪欲さが云々」あなたは芋のつるで腹を満たしたのか?とでも思う。
そもそも過保護に育てたとしたら、その責任は当該責任者世代(50代)にある。まあ、すべての若者が過保護なわけでもないと思うけれども。
時代に何かを吠えても仕方があるまい。
私だって今は違うけれども、生まれたときから冷蔵庫なんてあったし、その昔はやはり若者だった。
若いということは未熟である。その未熟さゆえ、期待と不安を抱かせる。
なんだからわからない叱責をして、その責任者は去った。
私は研修に際して、「相手の受講者が時間を短く感じてもらうこと、その時間に笑いをとること」を目標とする。
先輩とか上司には「教えたからわかるだろう!」というどこか甘えの気持ちがあって、言葉を選ばなくても「自分がわかるから教えればわかる」なんて思いこんでいる。
経験値や行動を座学に落とし込むときに相当な変換が必要になる。まして同じ経験をしていない(ここでは営業をしたことがない)連中にとっては私の中にあるインプットと教えるためのアウトプットは相当違う。
それが少しでも理解できるとき、人は興味を示す。前のめりになり、おかしな表現やジョークに笑う。
人の研修を拝見するとき、「教えること」に必死になって、「相手に理解してもらう」ことを失念される方も多い。「学ぶ姿勢、貪欲さははじめからあるべき」とすら考えている。
しかし、おもしろくない話は聞いていられないし、わからないものを延々と聞いていても学ぶ姿勢なんて出てこない。
それは当社の一連の研修に出ていて、テキストの輪読と輪読にコメントを加えるだけとかでさっさと終わる。やっつけ仕事にしているケースがほとんど。
貪欲さはさておき、会社に入ってからの期間が短いものほど「仕事をスムースに運びたい」くらいは思っているから、役に立つ興味深い話には身を乗り出す。
だから私たち管理職や先輩は、もう徹底的に教える内容を噛み砕いたり、表現を変えたりしながら、エピソードを盛り込み、おもしろい仕立てに仕上げる必要がある。
少なくとも「お前たちは過保護に育てられた世代だ!トンチキ」という表現では何も伝わらない。ジェネレーションギャップを感じるのがせいぜい。
私たちはすでに自分でガシガシ物事を実現するよりも、それを伝えたり、教えたりする世代に入っている。
どれだけ優秀な人でも自分でできることは知れているから、後輩ができてくれるよう常に努力をしなくては、組織としてレバレッジはかからない。
ゆえに「教えることを教える」という重要になる。「お前教えとけ!オンドレ!」とテキストだけを投げられるけれども、教育者教育に重きは置かれない。
若者たちに促成栽培的な一定の結果をもとめるなら、それに見合った肥料を用意し、土壌を作るのが重要だ。
最近の若者は・・・という言葉の裏には、半年以上かけてもまったく育てられなかった・・・という自省はなかったであろう。
めまぐるしく変化する社会では、教えている余裕はないけれども、教えなければますますせわしくなっていく。
私たち自身が「果実をとる」のが目的でなく、肥沃な土壌を作り、それを見守る・・・という世代に入っていると思う。
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