2008年03月27日
「空気」の研究(書評・感想)
- 「空気」の研究
- 「水=通常性」の研究
- 日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について
- あとがき
物事の多くが空気で決定している。時にはそれを世論と呼び、それは民意とも言う。閉塞空間では「場」というし、ネット上ですら圧倒的な支配力を持つ。そういうものを真正面で研究したのが、「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)でも多く引用され、絶賛されたのが本書。
また太平洋戦争における最高責任者、連合艦隊指令官の戦後の言葉として筆者が引用するのが以前から私は、この「空気」という言葉が少々気になっていた。そして気になり出すと、この言葉は一つの゛絶対的権威゛の如く至る所に顔をして、驚くべき力を振っていることに気づく。「ああいう決定になったことは非難はあるが、当時の空気の会議では・・・」P15
「戦後、本作戦の無謀を難詰するのは世論や史家の論評に対して、私は当時ああせざる得なかったと答えうる以上に弁疏(べんそ)しようと思わない。」P19
逃げ口上でなく、空気が蔓延し、あがなうことは最高司令官を持ってしても難しかったことが予想できる。
現在は一層空気の醸成が早く、風化も早いように思う。たしかに流行という言葉も「空気」を連想させる。そして「空気嫁!」は圧倒的正義を振りかざす感を持ちつつも、読むべき空気の説明をしないという特徴を持つ。その場、その時、その状況にいるものだけにしか理解しえないし、理解していない場合には黙っていることを要求する。既定の正義の前には屈するほかない。
筆者が言う「空気」とは対極にあるのが「水」で「水を差す」という言葉が場を一旦冷やすという意味か日本にはある。何かを頓挫させるネガティブな意味だとばかり理解していたが曰くそうではない。
ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引き戻すことを意味している。P91
なるほど、「水を差す」はそういうことだったか。本書を読みすすめていくうちに日本人はそもそも単独での意思決定が苦手だったのではないか?と思わせる。
経営の意思決定も空気醸成(根回し)が必要だし、責任が明らかでない「うやむや」な仕組みを作ってきたように思う。意思決定と責任はいまだ輸入物で「水を差す」のはしがらみを持たない「社外取締役」だったりする。現実にきちんと引き戻すためには社外の力を必要とする。そうでなければ空気に押し切られる。また筆者はこの「うやむや」にも言及する。
炎上についても本来、「空気」だけでは大きくならない。「水を差す」人間が適度にいてはじめて炎上する。炎上はその後の空気とともに飛び火する。
本書は書かれた時代から「炎上」にまで言及はないものの、「リンチ」という言葉を通じて、十分通じる。炎上もリンチの一種でそこには明確ではない「正義の空気」が存在しているように思える。
「空気」だけに合わせていくことは一貫性を崩壊させるとともに、「空気読み」に注力する人たちに冷や水を浴びせることになるだろう。
以上で記してきたように、「空気」も「水」も情況倫理と情況倫理の日本的世界で生まれてきたわれわれの精神生活の「糧」と言えるのである。空気と水、これは実にすばらしい表現と言わねばならない。というのは空気と水なしには、われわれの精神は生きていくことができないからである。P172
凝縮された本書をうまく書評することはできない。筆者ですら「空気」の正体を突き止めるまでには至っていない。しかしこの当然視されつつ、客観的に見えない、質感のないものこそ「空気」の正体だろう。
「空気」に流されることなく、さりとてうやむやにするでなく、まずはわだかまりや執着を質感のある「水に流す」ことからはじめたいと思う。うまくできれば「空気を読む」ことより幸福な人生を送れる気がするし、日本人が忘れかけている価値観かもと思う。
冒頭の通り、参考文献として絶賛されたことに頷ける。わからないなりに得るところの多い一冊であった。
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この記事へのコメント
すごく面白そうですね。
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