2008年10月24日
大人の時間はなぜ短いのか(書評・感想)
年々短くなる(と感じる)時間にこんな仮説を持っていた。
- あらゆる経験が(擬似的にでも)体験済みとなり、自分の経験の多くが、類似性を帯びたものと感じる。
- 人間は重複する(類似性を帯びた)記憶をカットしたり統合したりするので、年齢を経て振り返ってみると(編集された映像のように)短く感じる。
本書は物理学的な時間論ではなく、「どう感じるか?」すなわち認知的時間論。経験則的に自分に引き込めるだけに楽しめる。
- 第1章 時間って何だろう?
- 第2章 私たちは外界をどう知覚しているのか
- 第3章 時間に関わる知覚はどう処理されるか
- 第4章 人間が体験する時間の特性とは?
- 第5章 時間の長さはなぜ変わるのか
- 第6章 現代人をとりまく時間の様々な問題
- 第7章 道具としての時間を使いこなす
知識があっても、錯覚は回避されないのである。P39指でなぞってみればわかるが、この画像は渦を巻いていない。錯視である。しかし、錯視とわかっていてもやはり渦が見える。
しかし、人間を含む多くにおいて知覚されている事柄と物理的実在とか乖離している多くの事例からいえば、時間に関しても生物固有の仕方で構造化していると考えるのは理にかなったことだろう。P47なるほど、その手があったか。人間というのは奇妙なもので、同一体験はできないが、共有体験はできる。それと何の関係があるか?
時間はただただ無条件に、刻々と過ぎ行くだけに見える。しかし、そうだとすると時間の経過自体が物質の<時間的質量>といえないだろうか。ならばそれこそ<記憶の原形>ではないか。文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)P109つまり、経験とか体験そのものが時間とおおいに関係している
。そこには錯視と同様の(人間という)種における特有の時間体験がある。
一方で個人差としての時間評価(長いと感じるか短いと感じるかは以下に分類される。
- 身体の代謝
- 心的活性度
- 時間経過への注意
- 他の知覚様相の状態
こういう時間観は長い間の進化の過程で得てきたものであろうから、錯視と同様簡単に変えることはできない。
繰り返しになるが、このことから分かるのは、時間に方向性や特別な時点を持ち込むのは、時間そのものの物理的、概念的特性ではなく、むしろ人間自身の制約ほうだということである。P174つまり、人間の方には物理時間とは違う制約があるということだ。だからあわててもムリが生じる。現代はまさにその時間と体の齟齬が生じているのではないか?と考えさせられる。
本書はわかっていたけれども、意外な視点から時間というものを提供する。その時間が私にとって充実していたのは間違いない。
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この記事へのコメント
1. Posted by そふ 2008年10月29日 22:12
しまった…これから読もうとした本だ