2008年10月25日
この時期に思うリーダーシップのこと
タケがキレて銃剣で突撃し、ケーブが機関銃で火に油を注ぐ。
(表層とか知識としてしか)理解していない知ったかぶりの講師に対して何度か起こった風景だ。
たいてい、AMDか私が折衷案みたいなものを出してその場を抑える。それはもう6‐4‐3のダブルプレーとか、仙道−魚住−仙道−福田(SLUMDUNK)みたいなもので、役割はだいたい決まっている無言のサインプレーだった。
この時期に思うリーダーシップのこと。
この時期から来年の管理職とかその上に向けて筆記試験なり、面接試験なりが行われる。
そこで、管理職とは?リーダーシップとは?みたいな禅問答が行われる。
- 相手個人ではなく事実に焦点を当てて話す
- 相手の自信と自尊心を尊重する
- 周囲との建設的な関係を大切にする
- 改革・改善のためのイニシアティブを発揮する
- 自ら実践して模範を示す
管理職になろうとするものが思い浮かべるし、それを選ぶものがこれらの素養を見出そうとする。間違ってはいないがすっきりもしない。
孫子にいたっては、リーダーシップの資質として、智・信・仁・勇・厳の5つを挙げているらしい。
げっそりである。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。「草枕」
智と仁は矛盾する時があるし、信を通し続けるのはしんどい。厳すぎる人間には近寄りがたい。
理想的なリーダーシップはあっても、それを実現するのはほとんど困難だ。
模範(的行動)かどうかは別にして、タケの率先した勇がなければ、ケーブの智でもっての機関銃掃射もなかったし、 AMDや私の収めるシップは発揮されることはなかった。どれがリーダーか?と言われると後半で取りまとめた方がリーダーっぽいけれど、取りまとめるためにとっちらかす人も必要になる。取りまとめる人ばかりだとおよそ建設的な事柄はなしえない。
リーダーシップというのは「リーダー」にとっては必須のものであるが、リーダー以外の人間にとっては必須のものではない。
そして、ふつうの人間集団ではリーダーとリーダー以外の人間では、圧倒的に「リーダー以外の人間」の方が多い。
だから、リーダーシップと同じように、「サブ・リーダーシップ」や、「リードされるシップ」や、「何かというとリーダーにあやつけるシップ」や、「あとはオレに任せてくれシップ」や、「どっと盛り上がりましょうシップ」や、「まあまあ、そんなにかりかりせんと。どや、ここはひとつナカとってやね調停シップ」など多様な「シップ」が共同体の機能的で健全な運転のためには必要である。
リーダーシップは涵養できるか?:内田樹の研究室
いつの間にか唯一無二のリーダーシップを社会全体、特に企業では求める。
30年、40年生きてきた人間に役割(役職)を与えるだけでそうなるとは思えない。
しかし、日本においてのキャリアパスはそうなっている。開花する人も稀にいるが、その軋轢にみな苦しむ。
心理学においてリーダーシップは集団目的の達成における集団の活動に影響を与える過程と定義される。リーダーシップ:Wikipedia
とするならば、自分が集団活動に「どのように影響を与えてきたか」だけを考えればよい。また選ぶ者はそういった部分にファーカスして欲しい。
ゴリゴリの強豪体育会系「押忍!オラっキャプテン」ばかりでは組織は立ちいかない。考えるだけで暑苦しい。
管理職を選ぶにあたり、どのようなシップを持っているかは(蓄積情報により)だいたい判明している。そのシップの確認作業でしかない(はず)。
その(なんとか)シップを一段上で発揮させてあげること。
ゆえにお互い居丈高に構える必要はない。通過儀礼としての要素はあっても、(少なくとも)はじめて会うもの同士ではない。
ただし、受験した者あまねくそれを機会に足りないシップについては考えてもらわなくてはいけない。それをすべて改善する必要はないが、「そういうことを考えられる人」を選ばなくてはいけない。
たぶん、役割なんてのは相対で決まる。場所・場所で違う役割が必要になる。たまたまナマクラ講師に対しては私は抑え役だったけれども、竹槍で突撃することもある(最近減った)。
自分にあるシップの中で求められるシップとどう折り合いをつけるか?
智・信・仁・勇・厳・・・自分がこれまで避けてきたところについての挑戦はボチボチでよい。
ボチボチでも取り組んでいく気概があるか?(みんな面接では「ある」というだろうけど)
自分自身の欠点を受け入れ、相手に対しても(その人はそうであると)寛容となっていくこと。それがリーダーシップではないか。
だから・・・器というのかも知れない。
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